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原発アウトロー青春白書

 今月は何かと忙しかったのですが、この本はページ数も少ないし全篇が会話形式になっているので


あっという間に読み終わりました。





原発アウトロー青春白書(ナックルズ選書)




この本はジャーナリストの久田将義氏が福島原発の地元、相双地区(双葉・浪江・小高・大熊町


等の地区)出身で原発事故前も後も福島原発で作業員として働いている若者達にインタビューを


した内容をまとめた物です。




殆どが3人の若者の会話でなりたっているので、正直ちょっと状況が分からない部分もあったり


真意が曖昧な所もありましたが、私は非常に興味深く読みました。




私自身原発立地の町で育ちましたし、(本書の中でもちらりと女川の地名が出てきますが・・)


福島と宮城の沿岸部の原発立地の過疎の町の雰囲気、若者の様子というのは、


私には嫌という程リアルに思い描けます。



むしろその話し言葉を追っているうちに


町の潮臭い空気や、原発に向かうバスに乗り込む作業着姿の若者達の後ろ姿や


乱暴で悲しいけれどもでもどこかコミックな話し方なんかが浮かんできて




自分が地元で若者達の話しを聞いているかのような感覚に陥りました。




匿名性を守る為に彼らの顔写真は出ていませんが読み進めていくうちに


著書内の若者が 脳内で勝手に若年の親戚の男の子達の顔に変換されてしまって


彼らの過酷な作業環境を考えると、本当に辛い気持ちになり怒りがこみ上げてきます。




 ”うちらが実際作業してる内容で福島、無事になんの?原発が大丈夫になんの?
思わねえべ?
毎日ケーブル引っ張って。訳わかんない。元に戻らねえだろう。プラスにはなんねえべプラマイゼロだろ。今やっている仕事で。”


”一号機、久しぶりに見た時は鳥肌モン。想像していた以上だった。周りの状況が酷かったし。
建屋の周りの瓦礫とかが凄くて。
土手とかに穴があいているし。飛行機が来ても壊れないという東電の説明ウソだったんだなと思った。” 







東電の下請けの下請けのそのまた下請けの下請けの会社で働く彼らは新人の頃に

”特別教育”と呼ばれる被爆の危険性に関する<感覚をマヒさせる為の>研修を受けるのですが

東電の人達からはいつも

”ここの原発は飛行機が来ても壊れない”と説明されていたそうなのです。



3月11日に福島第一で作業をしていた彼らは、死ぬ思いをしながらそれぞれ原発に近い自宅に

帰り、そして続く12日の水素爆発の ”ボンッ”という音を聞き、地元を離れ

暫くは避難をするもののまた結局福島原発に帰ってきます。




 「うちらは原発で仕事してたじゃん。原発作業員が原発の仕事しねえでどうする。訳のわかんねい
奴がやって何年もかかるんだったらうちらが行って早くやったほうがいいぞって」

それ聞いて先輩は男だなって。素直に”うわっ”って思った。だから俺もそれに答える感じで
「うちらにもできることあるんですかね?」って答えた。
「でもぶっちゃけ怖いっす」とも言った。

それから俺にとって、絶対戻れないと思った地元だけど考えが変わったのが震災後、
初めてまともに自分の町を見た時だった。

その衝撃。

<中略>

「前みたいに暮らしたいね。地元やっぱり戻りたいね。自分ちがいいね。」ってそん時だ。
「本当にやっぱり地元に戻りたいな」って。「前みたいな生活したいな」って。きっかけといえば
それかな・
  




 ”原発で金もらって地元で暮らして、原発のせいで地元ダメになって。原発怖いわ。地元戻れない。
地元もういいや。そうじゃねえだろう。一でも二でも何かなるってそう思うしかないって
そう思わなきゃやってられないんだって。前みたいに皆戻ってきてくれて住めればベストじゃん。”

”やっぱり戻りたいじゃん。でも元通りってまずないべな。何十年後になるかも知れないけど
子供が出来てたら戻らない。俺も。その時、その時で。
立ち入り禁止エリアで絶対に通れないって言ったらまだ諦めつくかもしれないけど。
一時帰宅とかなしで。 そしたらもう本当にだめなんだなって。” 




この著者はいたずらに彼らを英雄化しようという意図はないと思います。


この著者は”はじめに”で原発関連の報道の一過性を批判し、


政府に東電に一石を投じたかった。と書いている。



彼らをいたずらに英雄化して(”フクシマ50”などのように。)物語として消費して


そして全てをあっという間に忘れ去る。



なんてことは最もこの著者が嫌う状況だと思います。




正直、私の中では親戚のまだ若い男の子達として脳内変換されている彼らのこれらの


言葉を聞いて、私は偉いなとか感謝とかの感情よりもまず、



原発というシステムそのもの、そしてこの事故のむごさが悲しいし、



政府、東電の対応の”他人事さ加減”に心底腹がたちます。



同時に原発立地の町は東電マネーで潤ってきたのでこのような状況になっても



やむ終えないというような


”自業自得”論が全く的外れである事も分かります。








インタビュー中彼らはこんな絶望的な事も言っている



 「今は何で働いているか・・心意気じゃないすか。”でもやってる”そういう気持ちで始めはやっていたわけじゃないですか。でもやっているうちにわかってくるんですよね。
これ意味ないなって。今の仕事意味ないなって。これやっても別に変わらないなって。

情報も入ってこないし、一つの現場の情報しか入ってこないすよ。それ考えると故郷に戻りたいからやっているっていうより食っていくためにやっているしという感じですし。
でもどっかで見切りつけなきゃってのはあるよね・・。」


「最近は俺らもう使い捨てって気持ちしかないですね
」 



なんて悲しい絶望的な言葉なんだろう???



事故から日にちがたってこういう絶望的な気持ちでいる人が現実にいるという事を忘れ始めていると


思う今日この頃。


この日本人の忘れやすさといったら。





 「今、日本の国土の一部が失われようとしてんじゃん。福島県の福島原発20キロ圏内。
俺達が育った街。
難しいことはわかんねえけど、これって国難って奴だべ?戦後始って以来の国難って言う人も
いるんでしょ?今まで住んでいた土地に誰もいなくなるかも知れねえ。
日本国民の生命と財産を守るのが国家なら、今こそ政治家はそういうの果たさなきゃならないんじゃねえの?

去年の10月以来、東京都内や横浜市内とか首都圏で放射性物質が検出されたでしょ。
それを連日ワイドショーが報道した。
じゃ全国の放射線量を調べるべきじゃねえの?それはそれで意味ある調査かもしんねぇけど、
でも忘れてないないかっていいたい。


最も考えなければならないのは福島の人たちの事じゃねえの?


宮城も含めたまずは被災地だべ。」
 






正直こんなニュースを見て心底ゲンナリしていたけど



「青森の雪、被爆不安でイベント中止 那覇」




全くその通りだと思う。




彼らの飾らないストレートな言葉こそ本当にストンとくる。




そうそう、最近話題のこの本。



   「原発危機と東大話法」  




買う気もないし読んでもいませんが、

レトリックだけは上手で、まったく現実感や当事者意識にかけるいわゆる”御用学者”や


”官僚”の話し方を指して ”東大話法”というのだそうですが・・・





いちいち頭に ”東大 ”とか付けるのがなんか・・・今更・・というのは今はおいて置いて、




東大話法とは対極をいく彼らの話法。 すごく伝わる物が多い。





名もない若者達に感謝の気持ちと、お姉さん的に体を心配する気持ちで一杯になります。


そして、彼らをとことんまで犠牲にしてなおも苦しめる


原発というシステム、


国のあり方、東京電力。



絶対に許すことはできません。


<追加>
著者の久田将義氏のツィッターアカウントを見たらこのようなつぶやきをされていました!

久田将義@masayoshih
”原発アウトロー青春白書”の感想。著者である僕の心の中が可視化されたかのような・・。
有難うございます。



と、今日のこの記事のURLを貼っていらっしゃいました!!!


久田氏の他の著書を拝見して勝手にコワモテの方と想像しておりましたが、一読者の感想に注意を払い

お礼を仰るなんて。


久田氏がいかにこの本を通して彼らのような人たちの事を知らしめんとしているのか、その執念を

感じました。




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by melodynelson-2812 | 2012-02-22 19:46 | 読書

「瓦礫の中から言葉を」  辺見庸





  時間的にも精神的にも本を読む余裕ができたので、買いためていた本を一気に読んでいます。




発売を待ちかねていた 辺見庸の 瓦礫の中から言葉を~私の<死者>へ は一ページ目の




とりわけ壊滅状態になった石巻市南浜町は、高校までをすごしたところであって、
私の感官の土台をこしらえ、感触、視感、嗅覚、予覚、発想、思考法、言葉の基本(母語の祖型)がつちかわれた大事な場所です。
もっといえば、私の内面の原初の色合いを決定した海と川、大地と空と入り江があった場所
なのです。
わたしにとって最初の光と影、音と色、はじめての触感のすべてはそこにあったのです



からどんどん引き込まれてあっという間に読んでしまいました。



辺見庸は石巻市南浜町の出身のもの書きです。


ぴんとこない方もいるかもしれませんが、南浜町は石巻でも最も津波被害の大きかった場所で


私も5月に南浜町に立ったときにはあまりの風景に言葉が出ませんでした




彼が故郷石巻に感じている感情は私が女川に対して感じている事とあまりに似ていて、



年も親子程離れた硬派の元ジャーナリストの辺見庸氏ですらここまで心を抉られたのか、と


正直驚いた程です。





石巻のことに、この震災の前に、わたしは作品のなかで直接的にはあまり触れてはいません、
失われてみて、本当にそれは恥ずかしいけれども、びっくりするぐらい大きな衝撃として
気づかされました。

その記憶の深さ、大きさ、重さ。いかに自分のなかで、それらが大事だったのか。
自分の表現をささえてきた基礎に、あの潮騒、波音、磯の香り、魚臭い空気があったのだと
いうことを思い知らされました。


<中略>

けれども、じつは、石巻の空気とにおいと光で、私の血と肉と感性はあったのだなぁということを、
今度、思い知らされました。
昔、映画監督のエミール・クストリッツァと対談したときに、祖国とはなんだろうという話になって、クストリッツァ監督が、祖国とはテリトリーではなく、記憶なのだという意味のことを
訥々と語ったのです。
3.11が起きてから、私はそれを思い出し、故郷もまた記憶のことなのだと気づきました。
失われ、壊されてみて、はじめて鮮やかにたちあがってくる内面の風景、
それが故郷というものではないでしょうか





私は外国に住みはじめて、言わば、故郷から遠くなってから、特に女川という場所の素晴らしさ



に気づいて、ここ数年は日本に帰ってくるたびに女川や三陸の町や島を細かく訪れていたの



ですが、それはすでに女川が自分の現在住んでいる場所ではなくて<祖国>に、言い換えれば


<記憶>となっていたのかも知れないとも思うのです。




外国に10年以上も住んでいる私がもう一点非常に共感できるのは





自分には精神の中心となる場がない。一介の故郷喪失者、たしかな想い出もなくしてしまった
デラシネだ、根無し草だと思っていました。よくいえば、自分はコスモポリタンみたいなものだ、
わたしにはルーツがないのだとさえ思ってきました。
記憶の根拠になるものは本当はないのだというふうに思ってきたけれども、今度という今度は
それが覆されました。

ああ、私はこの廃墟と瓦礫の源となる場から生まれてきたのだなぁと思わされたし、わたしの記憶を証明してくれる、あかしてくれるものが、いま、こわされてしまったのだという失意が、
自分のみつもる以上に非常に大きく重いものだということを、日々、痛いほど知らされているのです。
私にも「場」があった、ということです


そして、驚くような率直さで結びます。



いまも、まだ慌てています。自分には立つ瀬がないとさえ思うようになっています。
故郷は、誇りうるものでもない、突き放すものでも排除するものでもない。
しかし、自分の血と肉を声を、考える方法を形成してきた場。
そういう場が、あの大津波で壊されてしまったという思いは、わたしにとって永久に癒えない
傷として残るだろうと思います






故郷の津波の事に関しては随分感傷的な辺見ですが、福島原発事故に関しての言論現象に


関しては、彼らしい冴えた批判をします。





彼は震災後民法テレビ各局が


「ACジャパン」が作成したCMだけを流した事に言及します。



このACジャパンのCMに関しては、外国に住んでいる日本人にはちょっと分からないと


思うのですが・・。


正直、私があの時に日本にいなかった日本人のとの間に感じる埋められない溝と言うのは



あのACのCM。


具体的に言えば、


「こんにちワン、ありがとウサギ ♪  ぽぽぽぽーん。」や


「こだまでしょうか?」


なのですが、あれを繰り返し聞かされる狂気を体験
したかしなかったか、という溝なのではないか?


とすら考えています。



それくらい、私にとってはあのACのCMはトラウマです。



多分、かなり多くの人にとってそうだと思います。



ある日「あいさつの魔法」の曲が、youtubeから誤って流れてきた時には本当に吐き気がしました。


金子みすずのあの詩ももう二度と聞きたくないです。





ACジャパンのCMは別に大震災に備えてつくられたものではなく、非常事態を前提にしたものでもないでしょう。そこが逆に興味深いところではないでしょうか。

戦前、戦中の日本の天皇制ファシズムは確かに苛烈な一面をもっていたけれども、それは
かならずしも上からの耐えざる弾圧的統制、全面的かつ、暴力的弾圧を必要とするものでは
なかったともいわれます。

下からの強調主義的全体主義化や日々、自然に醸成されていく、
”おのずからのファシズム”といった側面もありました<中略>ひとびとは力で強制されなくても、
自分で自分を抑圧し、みずから一方向的な雰囲気に言語やビヘイビアを合わせて、集合的に
無意識に統制されていくのだ、と思い知ったことです。

二十一世紀における日本型ファシズムの一端を垣間見たように感じました、





そして、福島原発事故を報じる政府・東電職員・役人・そしてジャーナリストが報じる


セシウム137一万五千テラベクレル放出されたとか、広島に投下された原子爆弾の168個分


などの空疎な数字の羅列を指して





このセンテンスはなにかとんでもないことを表現しているようです。ところが語り手や記事の
書き手が、数値と人間の間の恐ろしい真空を、生きた言葉で埋めようとしていないために
数値と人間の関係を言いえず、結果、なにごとも表現しえてはいないのです。

それはもはや主体の自覚的な意味作用を超えたエクリチュールでさえなく、ただの記号に
すぎません。
考える人ではなく、存在をほとんど記号化された役人や記者達が臓腑から吐いたガスのようなものです。デジダル時代には有機物もひとしなみに記号化されてしまいます
 





この記号化は情報が膨大化する昨今はますます進みもはや



ヒサイシャ・ヒバク・そして フクシマ。



時としてその言葉の裏には人間の生活があることを忘れられているかのような


空虚な言葉の羅列。






私の好きな堀田善衛の本に関する記述もあるのですが、長くなったのでこの辺りで。





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by melodynelson-2812 | 2012-01-26 07:51 | 読書

神様を探す

 




  私、この年になっても未だにマンガを読むんですけどね、



最近読んだマンガですごく良かったのがこれ


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いがらしみきおの    I ( アイ )    


8月に1巻が出たばかりなのですが・・


あらすじは宮城県の田舎に住む少年二人が神様を探す。

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というなんとも哲学的な話しなのですが、私としては哲学書というよりは



民俗学の書物を読む感覚です。


東北といえば座敷わらし伝説が生まれた場所で、そして今でも普通に


”拝み屋”という職業が認知されている土地柄。


このマンガからはそんな東北な匂いがプンプンと伝わってくる。



いがらしみきおといえば



ぼのぼの  が有名。(マンガ読まない方にはちんぷんかんぷでしょうからwiki参照して下さい・・)


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                      ぼのぼの


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                      シマリス君



この方宮城県出身で今も仙台在住でいらっしゃるのです。



うーん、どうりでこの生臭いまでの東北臭を再現できるはず。





どうしてこのマンガの話しをしたかというと、



ずーっと気になっていたことなのですが



最近、仙台市内にこれを見かける事が多いんです。

             

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はい?? 


罪って何? 


しかも拡声器を使って何やら 終末期的な事を語っている・・



あの、もしや 津波と何か関連付けているわけではないですよね??





想像してみよう、



カトリーナの被害の後のルイジアナの街角で、イスラム教徒や仏教徒が


拡声器を使って ”罪を償え”とか ”地獄に行く” とか説教しだしたら


どんな事がおきるか・・・・。




殴り合いが始るか、警察が来るか 最悪な場合は誰かが拳銃とかライフル持ち出すとか・・





仙台の道行く人は もはやそんな拡声器は存在しないかのように無視し続けていて



無関心というか、ある意味大人の対応をしていて実はそれが一番なんだろう。とは思うけど




でも、あれだけの自然災害で辛い目にあった地域でこういう事をするっていうのは私には



嫌がらせ としか思えない。





それでも、この程度の事ならばなるべく雑音に耳を傾けないようにすれば良いのだけど、






5月にまだ石巻にいた頃 



その日は 水の配給がある日だったので配給所に行って両手に水を持ってえっちらおっちら歩いていると




県外ナンバーの車から数人の白人男性が降りてきた。




そして配給所から帰ってくる人に何かを配ろうとしている。





 ? ? ? ? 





と思っていると一人の男がこちらに近づいて私に差し出したのは





なんか宗教っぽい絵が描かれたDVDと教えが書かれた偽物のコイン。



それを見た瞬間に私の頭まで最高速で血が昇った。





両手が塞がっている私の横の母に無理やりそのDVDを渡そうとしている。




何ジンなのか分らなかったので 否定の意思表示としてチッと舌を鳴らして首を振ると




その男は英語で



” 神の事が話されています ” という。




”知ってますよ。 だから いらないって言ってるんです。”




”どうして???あなた達に今必要な物です”



 ”! ! ! ! ! ” 



怒りでわなわなしながら、立ち止まって彼に向き合った。



”そんな物全然必要ないですよ!!!


あのね、あなたこういう事を今ここでするべきでないと思いますよ。”




相手の男はため息をついて頭を振りながらこちらを見ている。




母に無理やりDVDを渡すと、後ろから来る若い母親と小さい子供に近づいていく。



その背中に ” そういう事するべきじゃないと思いますよ ”と繰り返したけど



完全に無視。



一人でいたのならしつこく追いかけて反対意見をいうところだけれども



怒りで顔が真っ赤な私を母が心配そうに見ているので深追いはしない。



それにそもそも話しが通じる相手でもない。




怒りでワナワナしながら、家にたどり着いて




”そんな物ゴミ箱に捨てて !!!! ” という私に 母が





” でも、そんな事してその神様の罰があたったらどうする?? ”




やっぱり・・・・。



このような大災害にあって人間の非力さを目の当たりにした人にはこの



 という言葉は非常に効果的だ。




それだけに 腹が立つ。 



”あのね、そんな事で罰を与えるような物は神様って言わないんだよ。 ”




といって、母の見ていない時にそのDVDとコインをゴミ箱に放り投げた。



これってある種の暴力だろう !!! としばらく怒りが収まらなかった。





その後、別の場所でボランティアに来ていたアイルランド人の男の子と一緒に作業した時に




私は ” おまえも一味か???? ” と勝手に警戒していたのですが




あとで話してみたら、全く関係なくて 



彼にその日の事を話したら まずは




 ” FU○K !!!! ” 


そして


”津波で家が壊れた人にDVD渡すって何? ばかじゃね?? ”


とごもっとも。





信教に関することは非常にデリケートで個人的な事だから


何が正しくて、何を信じるかなんて他人に押し付けるべきではない。









ただ私は何故か いがらしみきおの I <アイ> 1巻の最後に語られる



誰かが見ることで世界ははじまる。


生き物は見るために生まれてきたのかもしれない。


みんなが見ることによってこの世界は創り上げられているのだろう。


だから誰もみていないところにはなにもない。


誰も見ていないところ。


そこは真っ暗で




神様しかいないのかもしれない。





という言葉に グッと 来る。 




そういえば、もうすぐ 9.11 から10年経つんだな。
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by melodynelson-2812 | 2011-09-10 06:43 | 読書